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大鏑矢神社の御祭神
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引き絞る はなす白羽の鏑矢に 
滝根もほろぶ 片曽手の山   (田村麿)
 当社は上代のことは詳ではないが桓武天皇延暦二十年(801)坂上田村麿は勅命を受けて、当地方賊徒平定のみぎり、当地に詣で鏑矢を奉じて、戦勝を祈願され、難なく賊徒を平定後、従者に命じこの社を守らせ、田村麿なきあと、田村麿の武徳を感じ、その御霊を合せ祭った。

本格的社殿の造営は、当社の夫婦獅子奉遷に合せ伝えられ、大同二年(802)とされる。
 
 後醍醐天皇延元二年(1337)戦乱により社殿を焼失したが、北畠顕家等が郷民に命じ社殿の復興を計り、顕家は、一女をこの地に残し宮を守らせたという。

 その後永享十二年(1440)結城満朝や遠近の各城主の祈願所として栄えた。殊に文明十九年(1487)船引城主の祈願あって、当社の宝物、御鉄鉢及び神領等の寄進が相前後してあった。天正四年には三春城主田村清顕の祈願あって、鏑矢の奉納があった。
 この時より、武門衆民の崇敬は日々盛んとなったが、寛永十四年(1637)島原の乱起こるや社殿に失火あって、宝物の二、三を残して大半が焼失したと伝える。

 慶安三年(1650)社殿再建造営し、九月一日遷宮奉祀を斉行した。慶安四年当地方に疫病流行し厳粛なる祭事があった。この祭儀がいまに残る七月三十日の疫神祭である。

 天和三年癸亥(1683)三春城主秋田信濃守の助力によって、安瀬六兵衛、斎藤太良衛等の本願により壮麗なる社殿を造営、八月二十九日の奉祝の儀が行われた。これより遠近の信者社頭を埋め賑わいを呈したと云う。
 遠くは神祇官領の知るところとなり、寛政六年(1794)大鏑矢大神宮の称号を贈献せられ、明治六年には郷社に列格された。同二十四年拝殿の改築造営、昭和三十八年銅版屋根葺替により県内外でも屈指の社殿となり、船引の大神宮様と遠近の崇敬者を集めている。